昭和41年10月3日 朝の御理解
本当の信心を、そういう信心を目指しておかげを頂いていきましょうと、本当のことがだんだん分かっていきません。やはりせっかく稽古するなら、本当のことが分かっていかなければなりません。ですから本当の信心を目指さなければいけません。だんだん本当の信心を頂いておりますと、どういうふうに分かっていくかと申しますと、神様のお働きと言うか、みんな、氏子を幸せにしてやりたいという、働きであるということが、、本当に分かってくる。
教祖の御理解の中にも、『あれもおかげであった、これもおかげであったと分かると本当の信者じゃ。』、とこうおっしゃる。ですから、本当の信心をさして頂きよると、あれもおかげ、これもおかげと、こう、だんだん( ? )になる。おかげではないと、おかげではないとこう思うておったことがおかげと分かるようになると、とおっしゃるのですから、それが分かっていくようになると本当の信心が出来ていきよるということに、言わば、なるわけですね。
どうして、これ、こんな事にというのではなくて、神様がこうして、私を育てて下さる、こうして私に分からせて、本当のことを分からせようとしてくださる、いうとことろがだんだん分かってくるわけですね。
先日から、昨日でしたかね、その事を総代さん方ともお話したことでございますけれども、その、月例祭の、いわゆる、は、委員長始め、その関係の方達と色々、遅くまで話させて頂いて、本当にこれは、困ったけ、困った結果になろうごとあると、いうことがその、御造営の内殿のことでございました。( ? )なるほどこう、考えてみると本当にそれはまあ、それは大変な手落ちじゃったなあと、せっかくのあれだけの、おー、大工さんにしてもらうなら、それはもう、内殿、外殿全部お頼みするべきであったなあと、また、頼まなければすまない。
まあ向こうとしてもそのつもりでおられたらしいのを、こちらの手落ちというか、まあ、手落ちというか、そこはもう設計者に任せてありますもんですから、そうであるとばっかり思っておったところが、こちらの方が、( ? )して、ほんのお宮さんのところだけを向こうにご迷惑かけてもよいことになった。それで、まあ、委員長としてもそれがとにかく、明日、4日の日に会合するわけでございますけれども、その4日の会合に出席せんとこう言うわけです、委員長も。
委員長、やっぱその先生、あなたがどうせ、内殿の方はあなただけのこ、ものですから、あなたの気分のいいように言うてくれたらいいですから、とこういうけれども、そんなわけにはいかん。委員長もおりゃ関係、それに直接、御用さしてもらっとる人もおりゃ、そうじゃない方もおるのであるから。そりゃあの、委員長がこんわけにはいかん、けれどもその私はこれは思うのですけれども、とても委員長として、ま、この、竹野っていうその棟梁ですね、大工さん、実を言うたら合わせる顔がなかろうと私は思うのですよ。
ほんとにたったこれだけのことをわざわざあなた達にごめいわくかけねばならんというのですから、そして向こうはその前の日にあの、高橋さんたちが行ってから、行ってからの模様が、そのいわゆる、やっぱり内殿外殿はやっぱり自分がするものだとこう思いこんでおられるもようであった。だからじっさいあそこに連れて見せに行くのが一番難儀であったんです。もう向こうに行ってから、ありゃーあんたこりゃ( ? )でけとるじゃないかといわれたらもうそれっきりだと。
それでもやはり、あのーお扉をこうあけるところをですね、(ああいう?)お宮さんとこ、あそこだけをしてもらいたかった、もうほんというならば、まあ(かたっだけならもうひものやでもいい?)仕事なんです。はーもういよいよそこになってから、皆がそこを実感して、こりゃーほんとに竹野さんにあいすまんことじゃったーということになったわけなんです。だから、誰も、いうなら竹野さんにじっさいに会いたがらないわけなんです。
さー来てもらう時に、どげんで言い訳をするかということなんだけどもねえ。やはり、その、神様の御都合とこう分かってはおりますけれどもやっぱりじっさいにそれに直面いたしますと、それに、なかなかでけん、そりゃやっぱり痛い事は痛い、痒い事は痒いわけなんです。やはりどうにも申し訳がないということはじっさい申し訳がないのでございます、ね。
とうて、下手に言い訳しよると、おーもういよいよ、困った(結果になるおそれのあるもんですから?)、そこは、こちらが実意丁寧に詫びていくよりか、もうそんときには、いがいにはなかろうということに、こっちの腹は決めてあったんですね。ところが昨日です、( ? )、あのーもう十時( ? )、明日の皆さんのお取次ぎを(ひとっきり)終わったというところにその、日田からお客さんが見えましたと、大工さんがみえとるとこういうのです。
んなら、まあ上がっていただけ、竹野さんです。息子さんと、この方が仕事がでける人なん。と二人で、そのみえております。まあどうぞあがっていただくようにと上がってもらって、それでやはり、あの、日田の方から、昨日はなんかおおかわの方の、木工祭りかなんかっていうのがありましてね、そちらに招待受けてから行かれておる、ここの前を通られるもんだから、現場によってみられたわけなんです。
それが、まあほんとに幸いな事に、昨日は一日で、だーれも(出てきてはいなかったわけです?)だから、自分たちだけでことわりなしに、ならもちろん内殿外殿はもちろんのこと、ひとおりこう見せていただいたというて見えたんです。そしてならやっぱりびっくりされとるわけですね、でけとるもんじゃから。そして、もうとにかく私の感覚では、もう偶然行けないっちゅうわけですね、あそこが、( すんならば?)やめにゃあいかんと( ? )
それで私は申しました、そりゃあもうせっかくあなたにお願いしとるから、あなたもやはり、していただくからには、もう、やはり十分な事として( ? )なさいましょうから、それはもうかまいませんから、どうぞひとつ、もう内殿外殿もうたいへん手のいっとる、(ごうてんじょう?)でもなんでも全部取り外して、あーたの、あーたの感覚で、あーたの思われるとおりにひとつやってみなさいと私が申しました。
そしたらその言われるんですね。あれだけの材料をいれて、あれだけの手間をいれてあるが、「それは先生、そすとほんとにあれはあのまんまもう使われませんよ。」、と、こう言う。「無駄んなりますよ。」、と言う。「それはかまわん。」、と私が言う。そしたら竹野さんやはり、その、金光教の信心を、まあてあつうというほどじゃないけれども、御本部に長年行っておられて、あちら関係の御建築をし、本部の要職の人達とも会って、その金光教の信心がどういうようなものかということは、いわば聞かされておられるわけですね。
ですから、それでは神様に対してあいすまん、これだけのことをお粗末にしたのではあいすまんことになるから、と、こういうのです。ここんところがです、私は、微妙だなーと思ったんです。なるほど私がみてもですね、もう内殿に入る( りっこうすることは?)、あのー大きな柱が一本ぼーんと天地を貫くように建っておるとですね、真ん中に。丸柱が。ですからもうほんとに見上げるように天井が高いんです。まあ、あんな内殿に入って天井が高いとこは私どもも見たことがないです。
けれども、けれども、私は、私の感覚なんです、あれは、ね。もう私はむしろ、ほんとにこの真ん中の柱が天地を貫くよな感じで建っておる。いくら建っておっても、こちらの方から見えない、あそこに御簾が下がるのだから、ね。だからなるべくなら、そのお宮をあそこにこう作って、その上の方の感覚というのが高すぎるから、これでは思うような、でけんと言われるけども、その低いつもりで作ってくれ、もらったらいいのですよ。だからお宮だけは。わざわざ長ーいのは作ってもらわんでいいわけです、私としては、ね。
ですから、結局あのその前の日に、(あなあぎ?)やら飯塚やら自分がなさっておられる建築の図面を送ってきていただいとりましたから、とりあえず( ? )あたえなさった、もうとりあえず私はあの、奉祭様式、いわゆるお祭りの様式には、私は今までの生き方に少し抵抗をもっておるし、また教団自体がもうほんとうに霊社とか神様とかいうようなのは、一緒にお祭りするべきだと、一つにするべきだというような声が非常にまあ強い。
まあその(かど?)、教団としても。だから開扉もしない。もう(舞うだけ。?)これは本部の祭場もそうでしょうが。開扉もなからなければなにもない。ただ白い布が下がっておるだけなんです。なんにもない、飾りもない。そういうあり方になろうとしておる、ひとつの過度期なんだけれども、しかし良いものだけは取っておきたいというのが私の生き方なんです。
例えそれが神道からきておろうが、仏教からきておろうがです。信仰に、お道の信心にぴたっとくるようなもの、私どもの拝ませていただく、私自身の気持ちにぴたっとくるもの。全然抵抗を感じないものは、そのまま私は頂きたいという考えだから、ね。私は今までの霊社と思われ、神様の方のそれには、一つもいやあ抵抗を感じんどころかそうしたいと思うのだから、あーたが甘木でなさったとおりのことを、まあ少しあれの小型を、ここにはあてはめてくださりゃあいいんですよと。
もうほんとにあーたの仕事のするところが(あーつかん?)になってほんとにあいすまんけれども、ここんとこだけをひとつ、どうぞ、やって、そういうふうに、つもりでやってください、やりにくうもあろうけれども、こう申しました。そしたらしばらく考えて、そりゃあ大工さんに( ? )ですね、(まあほんなら、あすのほんかもしれませんけれども?)、あの人の関係のないところをずーっと見られてですね、あそこは下手やっとる、ここは間違ってるといったようなことも、まあ私に説明されましたけれども、それは私は聞こうとは思わなかった。
また( ? )関係じゃないのですから。いわば大工達の不始末のところやら、例えば材木をこうすることをあれ養生というそうですね。養生が悪いという、あれだけ立派な(こわさんすぎを?)、それこそたくさんどこにもここにも使いながら、(しかつのこわさんすぎ)がひとつもいきてないちゅうわけなんです。あの客殿の柱なんかも、実にもったいないはなしですよと。もうあーたかぶがはえてこうなってるわけなんですね。一本が今、七万八万はするそうです、あの柱一本が。(こわさんすぎ?)
自分もその(こわさんすぎ?)をもっておる、という今あれと同じような( ? )もっておるけれども、そんなに、広大なもんだと、あの橋。それはもうほんとにぞうきでばしつかっておるように、もういうなら、(もうあまぎんのあめがかかわる?)風が吹く時には風がふきかかるというような、ああいうようじょうのしかたでは、せっかくの(もってはないすんだことも?)、けれどもそれはそれ、これはこれなんですね。そっからそれでいいと私はおもうんです。
だから、もうあとは問題はその、内殿関係だけみとけばいいですよ、と言いたかったとこですけども、まあそういうふに言っておられました。そして結局はです、まあ息子さんと一緒にみえてから、とにかくそれではもう、あれをあのままいかして、そして、まあとにかく一生懸命やらしていただきましょうということになったんです。それまではですね、非常にあら高橋さんが( ? )いってから、そのまあ小言を聞いてきたようにですね、ほんとに私に頼みながらです、こんな長い間、そのすんともうんともすんともしょうちもせずに、その、やっぱおったということがひじょうに向こうには、気分が悪かったらしい。しかもその、仕事がほとんどこちらの大工がしてしまって、んなら、わたしがならでけんというとこ、んならそこだけをとってあるという、いわば、もうよかとこの( ? )
まあいうならば、その、何と申しましょうかね、もうけぶんがないというわけ、商売人でいうなら、ね。よかとこがなかっち。というようなことだけを自分にさせて、というような気持ちがあったらしいんですけれどもね、そこんところを、あのーもう私はほんとにそれを聞きながら思うたんですよ、ね、あれがほんとに誰か連れてまあ行って、誰も、一緒に行くもんが難儀だったでしょう。
けれども、誰も知らんまに、自分達があそこを今日通らんならんから、ちょっとよって見ていこうかというて親子で見て見えられて、そして、その、あれならば、こうしないけません、ああしないけません、四日の日に私どもがまた参りました時には、ここんところを打ち合わせしなければなりません。ですから、誰も、きとってもくださらなけりゃならん、この人もどうぞ、だいたい古屋さんが(こられない?)話をしようかなということだったんですけれども、それはやはり、あの、古屋さんも来てもらわなきゃいけんというよなことを言うて昨日はもう帰れられたんです。
それだけのことなんですけれどもですね、もう神様の働きの中にはね、それこそ(さいこはびゅうるい、しあげはぼうじ?)というようなものがあるのです。それを私どもは、その前の前の晩からですね、もうそれはどうするかと、どういうふうになら、竹野さんを、ひとつお願いをするかということを、もう向こうがみて向こうが腹決めてきておられるちゅうな感じがする。こっちはなんにも言うことがいらん。ならまあどうぞ四日にならよろしゅうお願いしますというだけなんです。
さあ四日に来てもろうてからがもう難儀であった、実を言うたら。ところが、難儀なとこをこちらで(しらぬまにしまえてしもうとる?)、という感じですね。もちろんここじゃ、そのことを私がまだ、高橋さんがいいわけをしたそのことをまた私が申しましたら、いや先生そのことは先日みえたお方からよう聞きましたっちこういうておられるわけなんです。ですから結局なら(この日一時でもですね?)、おかげと思うその事自体がおかげ、そのことをもうおかげだと。
遅なっとったこともまた、なら昨日美登里会の方がおかげ頂かれたようにですね、いかにもうかつにしておったようだけれどもうかつじゃなかったということ、なぜって、私の心が、なら神様からそのことから離れておることがない。それでこうなっておるんだからうかつじゃないんだとこういう。やはり神様が、いわば忘れさせてござったのであり、神様が連絡し、させなかったのであり、ね。
神様が、いや竹野という大工にはここだけしか、ここ、ここだけを竹野にさせるという神様の御神意であったことを今にして思うのです、ね。ですから、まあそういうこと通らせていただけばいただくほどです、いわば、あれもおかげであったということだけじゃなくて、これもおかげであるということをです、だんだん分からせてもらう、ね。それはもう心配せんでんちゃんとおかげがのと、思いまた言えれる私どもにならせていただかなきゃならん、ね。それをやはり、こうそれを積み重ねていくから私どもの上に起きてくる一切の問題をですね、おかげだと、だから問題はうかつにならんように、ね。
神様に心を向けるその心がおろそかにならんように、こちらが心がけてさえおきゃあ、例えばそれは、さあそれは困った事じゃったの、手落ちじゃったのというようなことはです、ないということ。神様にお願いをしてからのこと。そこを私どもはです、ね、あれと、これと、あれというのはしまえたこと、これというのはもう現実取り組んでおる問題、ね。それでも実際その場になってみると、一つも難儀ではないということ。
『あれもおかげであったこれもおかげであったと分かるようになると、ほんとうの信者じゃ』。だから本当の信者に段々なっていきよる、ほんとの信心が段々でけていきよる、とうことはです、もうもちろん過去の、過去のことがですね、おかげと分からんようなら、私はもういよいよつまらんです。あれ、あれもおかげであった。何年前のあの、あのこと、あれがおかげであったということが分からなかったらです、これはもういよいよつまらん。ほんとに信心をほんとに活き活きとして頂いとらんという証拠なんです。
ところが私どもは生身をもっとるから、たたれりゃ痛いのです、ね。ですから、たたかれると痛い、道中で痛い、道中で思いしなければならんじゃろうか、とちょっと思うですけれども、これとてもおかげだと分からせてもらう。心の底には痛いと口には言うとるけれども、しかしどういう御神意があるやら分からん、神様の働きがどういうふうにあっておるやら分からんから、その働きをみごとにあらわしていくために、心を神様から話してはならんという生き方、そこまでをはようひとつお互いが成長させてもらわねければ、ね。
そこを通らせていただいて、自分はほんとの信心へ向かって進んでおるんだな。(こづれ?)でいきゃあほんとのおかげが受けられるんだな、という、いわば確信もでけてくるようなものであります。そこをひとつ、みなさんがほんとの信心を目指して、椛目に参ってきとるからみんな真の信者を目指しとるとはいえんのですよ。いくらほんとのことを教えられたって、ほんとの聞こうとも行じようともしなかったら同じでしょう。ですから、私がここでみなさんに聞いていただくことです、それをまずほんとなことだと信じさせてもらい、そのほんとなことを私どの身の上に行じていけば、ほんとのおかげにもほんとの信心も分からせていただけるんだという、ひとつ思い込みを持って信心の稽古をなさらなければなんらんと思うのですね、どうぞ。